北前船とは・・・

 

北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代中頃から明治時代中頃にかけて日本海で活躍した廻船のことで、船主や船頭は主に、北国、北陸の人たちでした。商売の形態は、荷物を預かって搬送し、運賃を得る運送業ではなく、船主自身が商品を買い込み、より高く売れるところに運んで、その利鞘を稼ぐ、買い積み方式が特徴でした。

「北前船」という言葉は、主に北国、北陸の人たちが所有する廻船で、大坂を起点に北海道までを往来した廻船を指し、大坂や瀬戸内地方の人々が呼んだ言葉です。そのため、「北前船」という船型を指す言葉ではありません。 

 北前船」の商いを行うために使った船は、北國船やハガセ船、ベザイ船など、時代と共にいろいろな種類がありました。「北国船」や「ハガセ船」は、江戸時代の初期から中頃にかけて使われた船で、帆走だけでなく、櫂や櫓による人力を必要としました。そのため、石数の割りには、多くの乗組員を必要としました。

 

 江戸時代後期になると、和船のほとんどは「ベザイ船」に変わっていきました。ベザイ船は、弁財船と書きます。一般的には「千石船」と呼ばれて、大きな帆をあげて、風の力だけで動くため、少ない乗組員ですむのが特徴です。千石クラスの船で、乗組員は12名~13名程度と言われています。

 一方、順風を頼りに前進するために、風がまったくない日や、向かい風のときは、途中の湊、湊で「風待ち」をする必要がありました。航海日誌などを見ると、1カ月近くも風待ちをしていた例があります。

 

  ベザイ船の特徴の一つが、甲板をすべて取り外すことができることです。このことは、船底まで荷物を運びいれる作業がとても容易な利点があります。しかしながら、荒天で、波をかぶったときは、簡単に水が船底まで入り込んで、沈没の原因ともなりました。

                                                     

北前船の航海

北前船は、春に大坂や兵庫の港を出港し、瀬戸内から、赤間が崎(下関)を抜けて、日本海を北上し、ちょうど7月から8月の真夏に北海道に着きました。北海道では多くの海産物を積んで、再び、大坂に戻るのは11月下旬から12月頃になり、1年間をかけての航海でした。

1年一航海となった理由は、途中、途中の港で商品の売りさばきや買い込みをしたことと、良い風(順風)が吹かないときは、風待ちをせざるをえなかったことなどがあげられます。